楽しい方向音痴の旅日記

渡辺沙羅のブログです。 This is Sara Watanabe's blog.i just want to live happily.

3回目の3.11に思ったこと

山梨にも春がやってきました。

ということは再び3月11日がやってきたということでもあります。いろいろ思うことがあるので、久しぶりにブログに書いてみようと思います。


(2013.3.9 ブックカフェという素敵な名前の空間にさそわれて甲府で開かれた「さよなら原発まつり」に行ってきました。)









高校最後の年、大学などの組織に属すことなくやっていこうと決めました。何を決めるのも自分。自由だけどそれは結構つらいことでもありました。

私は、2011年3月11日、実家に帰って来ていました。実家は山梨なのですが、ものすごく長く揺れたので、気になってテレビをつけました。そのときの津波の映像は、なんだか現実離れしていて作りものの映画を見ているような気持ちになりました。すぐには状況が理解できませんでした。
テレビで、「現在、原子力発電所からの情報は入っておりません」という言葉で、女川のモニタリングポストと、福島のモニタリングポストと、東京のモニタリングポストが表示されているページを開くと、そのとき既にいくつかの値が調整中になってしまっていました。
この日から、三ヶ月間くらい、外にでることがこわくて、ずっとパソコンの前に座って、ふくいちのライブ映像の風の音をバックにひたすら1986年におこったチェルノブイリ原発事故や、放射線降下物を調べる生活が始まってしまいました。

調べながら、いつも考えてしまうのは、これからはどういう生活はしていけるんだろうかということでした。
私は、白州町という小さな町に住んでいます。私の住んでる町には、震災前から食べ物や家をはじめ、電気までも、自分たちで作って暮らしている人たちがいます。つまり、原発で発電した電気を使っていないで生活しているということです。そんな人たちが真っ先に、原子力発電所内に閉じ込められた人の救援に行ったことに衝撃を受けました。


6月頃からは家を離れ安曇野で、アースバックハウス(土嚢袋で作る家)のワークキャンプ(労働対価で食と宿と学びを提供してもらうこと)や、(放射性物質降下の可能性ある)地元ではマスクをしながら有機農家でアルバイトをやらせてもらいました。


やっとそのころから、高校生のときから思っていたことが少しずつ実現できるようになって来ました。自分で考えて正しいと思ったことは正しいと言うことができて、問題だと思ったことは問題だと発言することができるような生き方です。同じように考え、暮らしている人たちとも出会うことができて、いろんな人のいろんな生き方を見せてもらうことができるようになってきました。

しかし、それと同時に、目には見えない放射性物質によって私たちの生活は大きく変わってしまいました。自分たちで食べるものを自分たちで作って生きていたひとや、安全性を重視し農薬を一切使わずに野菜を作りそれを提供していたひと、料理を通じて幸せを共有していたひと、いろんな人たちが生活を考えなおさなければいけなくなってしまいました。放射性物質は、目にも見えないし、においもしないのでひとそれぞれさまざまな考え方があり、自分が所属している組織に影響されがちで、家族や友達の中にも距離が出来てしまったりすることが、とてもショックでした。
         

1日は24時間です。しかも少なくとも今は人間のいのちにはリミットがあります。生きるためには食べなくてはいけないし、食べるためには働かなくてはいけません。いい考えを得るためには寝ることも重要で、私にとって何より大切なのは、生きているということが楽しく喜びとして感じられることです。
組織に属すると自分で考えることが少なくてもいいかもしれないけど、自分の考えとは違う考えにも基づいて行動せざるを得なくなってしまうことがあるかも知れません。
組織に属さず自分で決断する暮らし方だと、毎日は自由です。ただ組織というのは、効率を最優先したシステムなので、個人でやろうとすると効率は悪くなってしまうので、ますます時間が大切で使い方がとても難しくなってくるように感じています。でも、そんな暮らし方でどうにかうまくやっていきたい、こんな生活は、夢のようで空想的といわれてしまうかもしれないけど、だめかなぁ!?うまくいかないかなぁ?まだまだ、考え中です。。